卒業するとはいうけれど

今日は卒業式。 僕も3月いっぱいで退職なので一緒に卒業だった。 ゼミの後輩から先輩に花束が渡されたが、僕もおこぼれで、バラを一輪もらった。 僕のゼミは環境経済学ゼミであるから、当然環境経済学に関する勉強をみんなしてきたわけだが、どれぐらいみんなの頭に環境経済学が残っているだろうか。 環境経済学というよりはむしろ、環境政策という印象の強いゼミだったが、このゼミの卒業生としてそれぞれの生活の中で勉強の成果を生かしていくことはできるのだろうか。 卒業というのは一言でいえば、「免許皆伝」ということなのだろう。 もちろん、日々精進を続けていかなければならないのは、その道の達人になればなるほど不断の努力をしていることを見てもわかる。 それでも、師匠として弟子に伝えるべきことはすべて伝えたといえるだけのことをやったという意味での卒業のはずだ。 弟子はもちろん達成感でいっぱいのはずだが、師匠にしても伝えるだけのことは伝えきったという満足感を持って「卒業証書」をわたすのであろう。 僕の中に、学生に伝えたいことというのはあるか?これを伝えれば十分ということはあるか。 僕がやっていたのは単に、学生のそばについて勉強を手伝い、卒業の時が来るのを待っていただけなのではないだろうか。 学生は明日から一本立ちできるか。 そんなことを卒業の意味を考えると思った。 鹿児島に来て初めて「先生」になり、いつしか5年が経った。 5年の月日というのは長くて、一番長かった大学時代も4年、2年、3年で区切りがあったから、こんなに長く一つのところにいたのは初めてだ。 それだけに、自分の中にもっと大きな達成感があっても良いのではないか、こんな程度で満足していてはと、思うのだが、それはただの感傷かもしれない。 少なくとも学生が精一杯やってきたことは僕がよく知っているし、自分自身もできるだけのことはやったと思う。問題があったとすれば、僕が教師として非常に経験不足だったこと。 今の自分ならやれたことでも、きたばかりの自分にはできなかったこともたくさんある。 5年の月日を思い返すと、数えきれないほど楽しいことがあったが、反省することもどうやらたくさんある。