いらないものはいらない

JR宝塚線の扉は、冬期、宝塚駅で停車しているときには、閉まっている。 電車が到着してから発車まで5分ほどあるから、エアコンがもったいないとか、車内が寒くなるから、といった事情を考えると喜ばしいことだ。 電車の扉はボタンを押せば開くようになっている。当初はこれが分からずにドアの前に立ち、扉があくのを待っている人も多かったが、最近はそういう人もあまり見かけなくなった。 扉を開けるのが自動ではないのと同じように、閉める方も自動ではない。タイマーとセンサーをつければ店の自動ドアと同様、勝手に閉まるようにもできるはずだ。 最初の頃は、これも電車に乗り降りするときに扉を開けてそのままの人が多かったが、最近ではちゃんと閉める人も多くなってきた。 多少不便でも慣れるのが人間のいいところだ。 扉が自動で閉まらなければ自分で閉めればいい。 なんでどこでも自動ドアがこんなに普及してしまったのだろう。 仮にJRが車両の扉を自動で閉まるようにするとしよう。 僕たちにとって、今はほとんどの人が自分で扉を閉めているから、「扉が閉まる」ことには変わりはない。 一方、JR側は車両コストがその分高くなる。 「扉が自動で閉まる」という僕たちにとって本質的にどうでもいいことが積み重なることで、少しずつJRの体質がコスト高になる。 コスト高は(微々たるものかもしれないが)料金に跳ね返る。 JRは、「お客様の利便性を考えて」というかもしれない。 一部の客は、「自分で扉閉めなくていいから楽」というかもしれない。 でも、料金が高くなって喜ぶ人はほとんどいない。 しかも、扉が閉まるという基本的にどうでもいいサービスのおかげで料金が上がることは誰も歓迎しないはずだ。 身の回りを見回してみると、こういう「どうでもいい親切」「消費者を甘やかしているとしか思えない親切」が横行している。 パソコンの「ユーザ補助機能」の大半もそうだ。 こういうサービス競争はどこまで続くのだろう。 必要なサービスにはお金を払っていいが、そうではないものには払いたくない。 「いらんことせんでええ!」 と、みんな声に出してはどうだろう。