大学院の講義ノートが、教科書みたいになってきた。

4月からの大学院の講義は、統計ソフトRを使って、環境問題を定量的に分析しようというものです。 感情論にながされずに、データではどの程度のことが言えるのか、自分で分析できるようになってほしいというのが講義の目的です。 データや理論で言えることを尽くしたうえで、最後の価値判断はお互いの感情の問題も入ってきてよいですし、むしろそれが当たり前です。 中途半端に統計のことをかじっていると、ついつい「データがすべて」と思ってしまうので、この辺でデータアレルギーをなくそうってみんなに言いたいなっていつも感じています。 それはさておき、若干親切めの講義レジュメをつくろうと思っていたら、中途半端な説明が気持ち悪くなってきて、ついつい書き込んでいってしまいます。 まだ3分の1ぐらいしかできていないんですが、読み返せば読み返すほど、手を加えたくなってしまいます。 このまま行くと、計量経済学の本が一冊出来上がるのではないかと思うぐらいです。 講義時には計量経済学のテキストは持ってきてもらおうと思っています。今作っているレジュメは、テキストのどういうキーワードをしらべればいいのか?というナビゲータ的なもの。 不正確でもいいから、必要なキーワードを「順番に」押えていくことを目指しているんですが、そういう位置づけのものって難しいですねえ。 世の中を見回しても、こういうスタンスで、「流れと応用の方向性がわかればいい」的なものって少なくて、本格派として、何でもかんでもきっちり書かれているものか、マニュアル的なものばかりです。 僕は、新しいことを簡単に学べることは大事だと思うけど、その先に好奇心をつなげることも大事だと考えています。 簡単なぺらぺらの本を一冊読んでもらって、「勉強した!」と満足させてしまっては、次につながりません。 「これ読んだら、ますます勉強したくなった」 と思わせる本が、いい本だろうと思うのです。 本でも講演でも、映画でも、なんでもいいのですが、読んだり見たりしているうちに、いろんな発想がわいてきて何かしたくなって、いらいらしてくるのは、いい知的刺激をくれるものかなあって思います。 ただただ、圧倒されるのは、相手を呑んでしまって、相手を育てることにはならないでしょう。 「あの人の授業、つっこみどころ満載やん。例えば、こういう例があったけど、これのほうがええんちゃうん?」とか、学生に思わせれば、授業は成功したも同然です。 「めっちゃ分かりやすかった。満足しました」で自己完結させてしまうのはやっぱり失敗でしょうね。 僕の今作っている資料も、不正確な事書いて突っ込まれるのはいやだけど、あるていど不十分さを残しておかないと、発想の余地がなくなってしまいます。 きっちり説明して、よくわかっているでしょうとアピールするのが目的ではなくて、学生に自分で考えてもらうのが目的です。 「もっと書きたい!」という気持ちをいかに抑えるかが大事なのかもしれません。